2012年05月06日

鼓動は思うより正直で

 僕の彼女は高校からの同級生だった。
 大学と短大で学び舎は分かれたけれど、彼女とはまだ付き合っていた。
 少し経って短大を先に卒業した彼女は僕より二年早く社会人になった。僕はなんだか取り残された気分で、彼女の愚痴を今いるような飲み屋でうんうんと頷くことしかできなかった。スーツの彼女と普段着の僕。何を言えるというのか。彼女の頼んだカルーアミルクのグラスの中で、氷が小気味よい音をたてる。
 彼女は外ではさばさばした性格だったので、OL特有のコミュニティは居心地が悪いようだった。
「あの人達、悪口以外しゃべること無いのかな。しかも今話してた人が居なくなるともうその人の悪口始まるのよね」
 居心地が悪いといっても彼女は強い人で、笑顔で全てを受け流しているであろうことは想像に難くなかった。
 そんな彼女が僕にだけは愚痴ってくれるのは、それはそれで嬉しいことだった。
 でも僕は彼女と対等になりたかった。
 もちろん対等じゃないなんて僕が勝手に思っていることで、彼女はそんなこと考えたりはきっとしていない。僕の劣等感を手から冷やしてくれるみたいで、グラスに付いた水滴が心地よかった。
 彼女に並ぶにはどうしたらいいか、僕なりに考えて、今日、それを実行しようと思っていた。
「あのさ、今日ってさ、僕の就職祝いじゃない」
「そうだね、頑張ったね、ほんとおめでとう」
「それでね、僕は君に伝えたいことがあるんだ」
 きょとんとした顔で彼女はなあにと聞いた。
「僕と結婚して欲しい」
 彼女の目を真っ直ぐ見て僕はそう言った。これがけじめだと思ったのだ。
 僕の中での予想はこうだ。
 僕のプロポーズを受けて彼女は普段とは全然違う様子で驚いたり泣いたり感動したりして、飛びついて来たりして、そうしてプロポーズを受け入れるのだ。
 けれど実際の彼女はそうではなかった。
 いつもと変わらない様子で、そう、と言うや、帰るねと立ち上がった。
「えっと、あのさ、プロポーズの返事は……その……どうかな」
 その言葉に返事するように彼女が僕の顔を見ると、そのままぐらっとよろめいた。慌てて僕が彼女を抱きかかえると、彼女は思い切り顔をしかめた。
「いったぁ……」
 どうも彼女はよろけた時に足をくじいたようだった。
 立つのもやっとの彼女はよろよろと、それでも帰路につこうとする。肩を貸しながら支払いを済ませ、僕は彼女を自宅まで送ることにした。途中店員がタクシーを呼びましょうかと気を使ってくれたが、彼女の方がそれを断った。彼女の家はすぐ近くなのだ。

 店を出て肩を貸して歩きながら、僕はとても暗鬱な気分になっていた。
 彼女は結局、僕のプロポーズに答えてくれていないのだ。もしかして僕のことはもう好きではないのだろうか。
 足を引きずる彼女の顔を見ることができない。そんな彼女は少し辛そうに小さい吐息を漏らす。
「あ、おんぶしていこうか」
 その発想に至らない自分に呆れる。足をくじいた女性を連れ回すとはなんたることか。
 彼女は最初拒否しようとしたが、くじいた足を数回踏みしめ、最終的に僕の提案に乗ってくれた。
 彼女は羽のように軽かった。そして触れるスーツ特有の硬さの残る生地は、僕と彼女の差を感じさせた。僕は悲しくなって言った。
「やっぱさ……その……僕のプロポーズ、迷惑だったかな」
 僕の背中でため息をつく気配があった。やっぱり呆れられているんだ。そう思った。
「あんたってほんとにバカね」
 そう言うとそれまで遠慮がちに背に乗っていた彼女は、ぎゅっと僕の背中に密着してきた。
「感じる? 私の心臓。お酒でも運動不足でもないわよ?」
 伝わってきたのは彼女の熱と鼓動だった。
「もー、あんな所でプロポーズだなんてどうしていいか分からなかったわよ。でもね、うん、私もあんたが好きよ」
 彼女の言葉に僕の心臓が跳ねる。
 鼓動は思うよりも正直で、僕もまた、お酒でも運動不足でもない拍動に顔を赤くしたのだった。



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2011年07月12日

颶風(ぐふう)

「さてと」
 私は今引いたばかりのタロットカードの絵柄を確認して、そして窓の外を見た。
 窓の外は酷い風で時折大きなダンボールか何かが舞っている。瓦でも飛びそうな勢いだ。風でマンションが心なしか揺れている。
 手にしたタロットカードの図柄を見る。愚者の正位置だ。
 それは若さ故の勇気や新しい世界を手にする革新を表すカード。私の未来を指し示しているのはこれか。これなのか。
 わざわざこのようにタロットカードに頼っているのにはわけがある。
 外は台風どころか颶風と呼ばれるレベルの酷い暴風雨だが、今日は私の愛する教授の授業の日だ。普段であれば風などなんのそので向かうのだが、何せ明日からはゼミ合宿だ。
 今日無理をして明日の合宿に病欠などとなれば悔やんでも悔やみきれまい。
 しかし今日行かないことで教授と会えないのは身を切る思いだ。
 こういったのっぴきならない乙女の事情から、タロット様に未来を尋ねたのである。
「つまり愚者のように難しいことを考えずに突撃しろ、ということね」
 私は覚悟を決める。例え暴風雨の中であろうと私の愛はかき消せぬ。ならば私の想いひとつだ。
「よっしゃー」
 軽く気合を入れると私は颶風渦巻く中をかけていった。

 台風で休講になったことを知った瞬間、私は愚者の本来の意味が「愚か者」であることにようやく思い至ったのであった。

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2011年07月08日

受け止めるよ 何度でも

「全然わかってない!」
 彼女は搾り出すように声を上げた。それは魂の叫びのようにも聞こえた。
「分かりたいと思ってる。だから話そう」
 僕も必死に声を出す。
 ケンカの原因はとても些細なものだった。それこそ換気扇の消し忘れとか、約束の勘違いとか。恋人同士ならいくらでもあるケンカだ。だから僕はそれほど深刻に思っていなかった。
 今回だって、目玉焼きには塩か醤油かだなんてくだらない話だもの。
「君の気持ちを僕は分かりたいと思ってる。だから君の言葉を何度だって受け止めるよ」
「それが違う、違うのよ!」
 彼女は顔を伏せるように声を絞り出した。
 今まで何度だって乗り越えてきた。僕は彼女のどんな言葉でも受け止める自信がある。彼女のことを愛しているからだ。けれどその思いは彼女に届いてないようだった。
「私、このままだと酷いこと言っちゃいそう。ごめん、頭冷やしてくる」
 彼女は何かを諦めたように玄関へと歩いて行った。
「何を言ったって俺は……」
「そうよね、だから、ごめん」
 彼女はそう言って部屋を出て行った。

 日もとっぷりと暮れて、帰ってこない彼女を探して僕は住宅街を彷徨う。
 何がいけなかったんだろう。僕は今日何度目かの思索に入る。僕は彼女の言葉は何だって受け入れてきた。なのに彼女は不満みたい。どうすればいいのか。
 そんな風に悩む僕の前に母と男の子の親子連れが歩いてきた。
 男の子は歩くのもおぼつかず、よたよたと歩く。母親はすぐ隣で歩みを合わせて微笑んでいた。
 男の子は突然座り込むと地面をべたべたと触ったり、側溝に溜まった雨水を触ったり、わがまま放題だったが、母親は嫌な顔ひとつせずその手を拭い、男の子を遊ばせていた。
 何故か、僕と彼女の姿がだぶって見えた。

 彼女を見つけたのは街灯の灯りはじめた近所の公園だった。彼女はベンチに寂しそうに座っていた。
「心配かけてごめん、もう帰るから……」
 彼女は憔悴した顔でそう言った。それは何かを諦めた顔だった。僕の口からは自然と言葉が出ていた。
「ごめんな、ほんとごめん」
「謝るのは私でしょ?」
「違う、そうじゃないんだ」
 きょとんとする彼女に僕は告げる。
「目玉焼きには僕はソースだと思う。君の意見や一般論も分かるけど、僕はソースが美味しいと思う」
 そう、彼女が怒っていた理由は意見の不一致なんかじゃなかったんだ。
 僕と彼女は保護者と子供じゃない。対等な立場なんだ。だから、議論もせずになんでも受け入れる僕に対して、彼女は怒っていたんだ。
「わ、私は断然塩よ。譲れないわ!」
 彼女はそう言って笑った。彼女の顔から暗さは消え、本来の明るさを取り戻していた。
 彼女はなにか手応えを感じたようにうなずきながら拳を握りしめる。
「塩かソースか、二人の間ではどっちが上か決めましょう。他の食べ物も趣味もなんでも、意見が分かれたら試せばいいのよ」
 相手の言葉を受け止めるというのは、保護者のように相手を無条件に許すわけじゃない。そのことに今更僕は気付く。今まで何度、彼女の自尊心を傷つけてきたのか。僕は謝りたい気持ちでいっぱいになった。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女は喜色満面でこう言った。

「あなたの言葉は何度でも受け止めてみせるから」

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2011年06月27日

朧月夜

 こういうのも朧月夜と呼べるのだろうか。
 周りは張り出した屋根や高層マンションに阻まれて空は細かく切り分けられて、まるで空がバラ売りされているみたいだ。
 ただ、雲が月光をさえぎり、或いは流れていくたびに闇夜の光量は少しだけ増減した。
 月がそこにあるのだろうが目視はできない。あるがない。こういった感覚を昔の人は雅と言ったのだろうか。まあ見えない最大の理由はベランダに居る僕の位置から見てマンションの上に月があるからなのだけれど。雅もへったくれもあったもんじゃない。
 僕はベランダでビールをあおる。子供の頃に間違えて飲んだ時にはただの苦い水だったのが、今では僕の血液だ。日々の激務で失った血を取り戻すように飲む。喉が喜びの声を上げる。
 僕の住むマンションのベランダは道を挟んでまた別のマンションと向かい合っている。
 ふと僕の部屋の真正面のベランダに人が出てきた。それはとても珍しいことだった。ここに住み始めて二年。春夏秋冬、一年中毎晩ベランダで飲んでいたが、向かいのベランダに人が出てきたことは無かった。電気は付いていたので人は住んでいるはずだったのだが、まあベランダに一度も出ない人だっているだろう。
 出てきたのは若い女性で、少し様子がおかしかった。表情は歪んで見えたし、目の辺りを何度もぬぐっていた。要は泣いているように見えた。
 僕はベランダのフェンスにもたれかかり、彼女が気付くのを待った。ビールを注いだコップから水滴が滴り落ちる。
 僕は彼女に気付いてもらいたくなった。それが泣いている彼女への同情なのか、私の中に眠っていた自己主張なのか、それとも下心なのか。酔った頭ではそのどれも当てはまりそうで、それでいてそのどれも意識化できそうになかった。
 やがて彼女は僕に気付く。バツが悪そうに顔を拭うと取り繕うように笑った。笑ったというのは希望的観測だ。僕の目はそんなに良くないし、マンションを隔てる道はそこまで狭いものでもなかったから。
 彼女に気付かれて僕は、自分が別に何もしたくなかったのだと気付いた。気付いてもらうのは目的で手段じゃなかったのだ。
 僕はそのまま眼を閉じてベランダでの晩酌を続ける。一旦気付いた彼女は、ちらちらとこちらを気にしたが、やがてその状況に慣れたようにじっと目を閉じた。まるで音楽を聞いているような穏やかな表情だった。いや、それもまた僕の希望的観測だったけれど。
 考えて見れば朧月夜というのは幸せなのかも知れない。実物も実態もわからないそのものに、美しい月がある、という幸せな推測ができるのだから。
 今日の分のビールを飲み干すのと同じタイミングで、彼女はひとつ背伸びをした。やがて僕に向かって軽く会釈をすると部屋に入っていった。
 彼女は明日からもきっと、ベランダに出てくるなと思った。僕にとっては晩酌に引き続いて楽しみが増えるわけだ。
 これもまた、幸せな推測でしかないけれど。

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2011年06月26日

眩しすぎるのは太陽じゃなくて

「ほらちゃっちゃと運転してねー」

 助手席に座った彼女が海の余韻にひたる僕を急かした。
 今日一日たっぷりと太陽を浴びた彼女は、海に来る前から真っ黒だった僕と違って、少し赤くなっていた。
 やけどまではいかないものの、白いティーシャツから覗く腕が痛々しい。カーエアコンから出る冷風に時折赤い肌を当てている。
 彼女は小さな顔に不釣合の大きなサングラスをしていた。サングラスはもっと小さい方が流行りじゃないかと聞いた僕に、一周回ってこれが逆にかっこいいと選んだ物だ。

「あんまり急いで事故っちゃだめよー。ゆっくりゆっくり。明日までに着けばいいよ。どーせ明日は休みだし」

 彼女はそう言うと、氷のう代わりに買った缶ジュースを顔に当てて気持よさそうに声を上げた。彼女はそのまま黙った。
 付き合ってだいぶ経つので沈黙が重いということもないが、この沈黙は何か質が違う気がした。

「どうかした?」
「ひぇっ、え、いや、なにも」

 そう言いながらやはり黙りこくってしまう彼女。
 僕に合わせて海に来てくれたが、彼女はどちらかというとインドアな人だ。もしかして無理をさせて疲れてしまったのだろうか。僕は急に心配になった。

「大丈夫? 疲れてない?」
「だ、大丈夫大丈夫、まだまだいけるよ」

 やはり何かおかしい。
 体調不良なら表情を見ればわかるだろう。僕は信号待ちの隙に彼女のサングラスに手をかけた。

「ひゃ、ダメ」
「ダメってどうしたの。西日眩しい?」

 太陽は僕達の右手に居る。サングラスを必要とするほど眩しいことはないと思うのだが。

「いや、太陽は別になんとも……」
「疲れちゃった?」
「そ、そんなことない、すっごい楽しかった」
「ならいいんだけど……やっぱり眩しい?」

 いつまでも手放さないサングラスを見て僕は逆に、彼女の目を見たくなった。
 彼女から少し強引にサングラスを取ると、彼女は顔を下に向けた。

「ごめん、そんなに眩しかった?」

 そう問う僕に彼女は顔を真っ赤にして言った。

「なんだか知らないけどあなたのこともっと好きになっちゃって、恥ずかしくて見れなくなっちゃったの……」

 彼女の顔は日焼けじゃなかった。でも日焼けを思わせるほど真っ赤になっていた。
 僕は信号待ちの間、ずっと彼女を見つめていようと思った。

posted by こまねこ at 18:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 恋したくなるお題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする